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フライフィッシング的本棚(2)
日本のホギー・カーマイケルが語るヘラブナ釣りと和竿の世界
『釣りひとり』
山村 聰/1979年/二見書房
角 敬裕(古書売買業)× 倉茂 学(渡渉舎)
倉茂 「フライフィッシング的本棚」の二回目は、山村聰(やまむら・そう)さんの『釣りひとり』をご紹介します。著者の山村さんは1910年生まれの俳優・映画監督で、戦後、釣りにのめりこんだ、とあります。
角 とくにヘラブナ釣りへの集中ぶりは尋常でないものがあります。この本は、山村さんがいかに釣りにのめりこんだかを綴った前半と、ヘラ竿の「孤舟」の作者、旭匠(きょくしょう)の竿作りを、ことこまかに解説した後半のふたつにわけることができます。旭匠の人となりと仕事ぶりを描ききった後半部は、興味がある対象を論理的にとらえる力づよさと、人間の機微を知る者の繊細な筆致に圧倒されます。
倉茂 大枚の借金を背負って『蟹工船』というインディーズ映画をつくったりしているところを見ると、山村さんの表現への執着を感じますね。山村さんはヘラブナ釣りに集中するまでに、江戸前の青ギス釣りの脚立釣りなど、さまざまな釣りを経験しています。それらの釣りを表現した文につぎのようなものがあります。
「脚立の上にただひとり置き忘れられた孤独感。ひょいとした糸ふけも見逃すまいとして釣糸を見つめていると、波のまにまに、自分がたゆとうているような、妖しげな眩暈をおぼえてくる」(「青ぎずの脚立釣り」より)
「瀬田川のはいじゃこは、実に美しかった。魚を掌にんだとき、その人肌の暖かさ、脂ののった、その、なまめかしさは、まことにエロチックな優しい情感であった」(「瀬田川のはえ」より)
ほかにも、「ぼらの喰わせ釣り」とか「ふっこの寝浮木釣り」とか、江戸前の釣りの最後の時代を体験したようですね。で、水郷でのヘラブナ釣りを好むようになる。
角 ヘラブナ釣りにのめりこんでいくうちに、はじめは孤独の影があった山村さんの釣りも、さまざまな知己を得て、ついには自ら「ポイント」という釣具店を銀座のみゆき通りに開業するに至ります。そこまでやるかという感じですが(笑)。
倉茂 その「ポイント」を中心に釣りクラブができておおいに盛り上がったはいいものの、「店の営業は伸びなかった」とある。で、本業の俳優のほうでは売れていたので、「なに、自分さえ我慢して荒稼ぎすれば、この程度の穴埋めぐらい、何とでもなるさ」などと言っています。この「ポイント」は有楽町に引っ越しをしていますが、その引っ越し先の土地は、マッキーズの宮坂雅木さんのお父さんの宮坂普久さんが釣具店を開こうと目をつけていた所だったそうです。そこを山村さんにゆずったのだそうです。
角 で、「ポイント」のスタッフとして若い者四人を自分の家に住まわせたとある。そのスタッフには、増田逸魚、米地南嶺らが含まれています。また彼は鈴木魚心を精進湖に訪ねていったりもしています。米地南嶺や鈴木魚心らは日本におけるフライフィッシングを初期に開拓してきた人物です。これらの人々の交友は結果的に我々現在のフライフィッシング愛好家にも影響を与えていることになると思います。また、店の特色を出すためにヘラ竿の「孤舟」を独占販売しようとしている。当時、「孤舟」を扱っていたのは、京橋の「つるや」と、上野の「喜楽」だけだったとあります。
倉茂 結局、「ポイント」は経営的にうまくいかず、閉店となるのですが、「孤舟」を扱ったことで、山村さんはその竿師の旭匠と縁ができ、彼の仕事ぶりをつぶさに観察した記録を残すことになるのですね。
角 それがこの『釣りひとり』の後半の「名竿「孤舟」の秘密」です。そして友人たちと一緒にへらぶな釣りやその竿つくりの真髄に迫る記録映画を完成させてもいます。旭匠の鬼気迫る仕事ぶりとその人となりを描いたこの文章を読むと、アメリカのバンブーロッド・ビルダーのエバリット・ギャリソンの仕事を、『ア・マスターズ・ガイド・トゥ・ビルディング・ア・バンブー・フライロッド』という本に残したホギー・カーマイケルを連想します。
山村さんとカーマイケルのスタンスは似ていますね。カーマイケルは、フィルム・プロデューサーとしてブロードウェイ界に生きながら、ギャリソンの本を書いたりドキュメンタリー・フィルムを撮っている。カーマイケルが『ア・マスターズ・ガイド・トゥ・ビルディング・ア・バンブー・フライロッド』を書いたのが1977年、山村さんが本書を書いたのが1974年ですから、期せずして同時代でもあるというわけです。
倉茂 カーマイケルについては『アメリカの竹竿職人たち』(阪東幸成/1999年/フライの雑誌社)に詳しく紹介されていますね。アメリカではギャリソンもまだまだ現役バリバリだったろうし、日本では、戦後30年ほどたって、景気もよくなり、なにか夢中になれる新しい遊びを渇望していた頃です。そのさなかヘラブナ釣りが盛り上がっていったんですね。
もうひとつ気づくのは、ヘラブナ釣りの特異性です。ヘラブナは、琵琶湖のキンブナをルーツにしていると言われていて、「永年の間に下流の淀川水系にまで繁殖し、分布された。たまたま、養魚家の目に止まり、養魚として大成功をおさめ、重要な食料として関西でもてはやされた」とあります(『へら鮒三国志』増田逸魚/1979年/桃園書房)。関東の水郷(霞ヶ浦一帯の水域)に初めてヘラブナが移植されたのは昭和5年とされています。東京・大田区蒲田の釣り堀「釣楽園」がヘラ釣り堀になったのをきっかけに、関東でもヘラブナ釣りが盛んになっていったようです。その後は、香川県などから移植が進んだようです。この「釣楽園」はのちに同じく大田区の長原に移り、「小池釣り堀」と名をかえて盛り上がったそうです。「小池釣り堀」はちょっと前まであって、私もときどき行っていました。春は池のほとりにある桜が咲き、花びらが舞うなかでウキの動きを楽しんだりできました。
角 関東と関西では、釣り方にちがい(野釣りと函釣り)があったようですが、いずれにしても、ヘラブナはマブナなどとは習性がことなっていたから、まっさらな状態からひとつの釣りのジャンルが始まり進化していったわけですね。当時、ヘラブナ釣りに凝った人たちは、未知の釣りを開拓していく楽しさを存分に味わったことでしょう。そういった釣りの特性を背景にしていたから、和竿の伝統にのっとった上で、竿つくりにおいても新しい挑戦ができたにちがいありません。この歴史の渦中に、山村さんの釣りもあったわけです。
70年代の話ですが、九州の生まれの私は、祖父に連れられていろいろな釣りに行っていました。で、祖父は、ヘラブナ釣りのときは妙に偉そうにしてこうるさく講釈するんです(笑)。茶道のごとく、ああしちゃいけないとか、静かにしろとか。いま思うと、ヘラブナ釣りは、関西や関東を中心として紆余曲折を経ながら好き者たちがきっちりと「釣り道」を作り上げていった世界だったからかもしれません。少なくとも祖父にはそう見えていたのでしょう。
その頃すでに九州にもヘラブナ釣りがあったわけだから、その広まり方は急激だったのでしょうね。移植魚を対象にする釣りとしては、バス釣り以上に急激な広まり方だったのではないでしょうか。田舎侍の祖父は、そのうわべの型式だけをまねして私に講釈していたようです。釣果は芳しくありませんでしたから(笑)。
ちなみに、カーマイケルはバンブーロッド・ビルダーになろうとして至らなかったのですが、山村さんは竿師になろうとは思わなかったのでしょうかね。山村さん自身、ヘラ竿をつくっていたようですが。
倉茂 ここまで詳細に竿作りのことを研究していたのだから、そう考えていたとしても不思議ではないですね。実際、次のような記述があります。
「本業と遊びをきっかりと断ち分けた形では、そのどちらも正しく捉えることは出来まい」
その一方で、次のようにも言っています。
「職人芸がどこかで吹っ切れて、いつしか作家たり得る例もあり、あまりにも拙劣な技術の作家が、ただの職人芸に及ばない例もある。いずれにしても、技術を伴わない理窟ほど空疎なものはない。私など、へら竿に関しては、その空疎の最たるもので、この空しさは、私の専門である演技の世界に照らしてみて、実にはっきりと浮かび上がってくる」
角 そして、竿師の懐に飛び込んで得た見識から、作家による釣り竿について次のように言っています。
「わたしたち釣師は、旦那衆の高みからではなく、いやでも真正面から、対等の立場で、つまり、作家と批評家の対面という形で、正当に受けとめることを余儀なくされる」
倉茂 この本には、「振り込みのときは、鉤先までが竿であり、取り込みのときは、手許までが糸である」といった言葉がちりばめられていたり、竹の扱い方の詳細な記述があったり、バンブー・フライロッド・ビルダーにとっても読み応えがあるのではないでしょうか。
角 和竿つくりの詳細はすべて網羅されているのですが、もっとも大切なのは、「生地合わせ」と「火入れ」のようですね。その部分については山村さんの語りも熱くなっています。特に火入れについてはヤケドしそうなくらい饒舌です。
「人間でいえば壮年の、安定した、精力的な、上向きの、実力ある旺な火があり、その上に、それを抑えて、充分に熾り切った切炭なりコークスがあり...」
へら竿師が山村さんというスポークスマンを持ちえたことは幸福だと思います。
倉茂 ここで思うのは、和竿とフライロッドのちがいです。和竿が丸竹の素性を生かし、いなしていく技術である一方、フライロッドはテーパーをもって竿の特性をコントロールしようとする傾向にある。ただ、日本のビルダーの場合は、入手できる竹の種類に恵まれているから、同じテーパーで素材をかえてみたりといった和竿作り的なことができるんですね。
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■『春鮒日記』英 美子/1994年/つり人ノベルズ
関東のヘラブナ釣りの黎明期には、興味深い逸話がいくつかある。『釣りひとり』にも記述があるが、戦時中、東京から茨城県の牛久沼に疎開していた中林淳真(なかばやし・あつまさ)は、ヘラブナや小魚、エビなどを釣って売り、生活の糧にしていたという。そのときの暮らしぶりを描いたのが、中林と一緒に暮らしていた母の英美子による本書。中林の言葉に次のようなものがある。
「水郷に疎開したことについて正直に、端的にいうならば、自分は戦争に感謝する。戦争があってよかったあ! と思う。なぜならば、徴兵にとられるまでの短い期間を、飯より好きな釣り一色で塗り潰すことができるのだから」
そうして釣りを生業としつつ、牛久沼周辺の水域を釣り場として開拓していった。彼らの疎開は1944年に始まったという。ほんの半世紀ほど前の日本のいち風景の記録としても秀逸。ちなみに中林は、のちにクラシック(スペイン)・ギタリストとして世界に知られることになる。
■『へら鮒三国志』増田逸魚/1979年/桃園書房
関東のヘラブナ釣りの黎明期に起こった逸話を綴った一冊。著者、増田逸魚は、山村聡の釣具店「ポイント」のマネージャーだったという。
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